懐古録と回顧録

フィリピン駐在懐古録(90〜92年)#2

第1期 フィリピン駐在(90年〜92年)#2

一般的には年金の受給が始まる65歳が定年だが、60歳で会社員生活から引退しようと考えている。

60歳といえば暦でも還暦と言うし、区切りをつけ第二の人生をきちんと迎えるには最適な年齢だと思うからだ。

60歳まであと4年以上ある。手始めに自身の会社員生活を客観的に見つめ直すことから始めることにした。

その手段としてブログを選んだ。ブログは20代で初めて海外駐在した第1期(90〜92年)と40代の第2期(04〜07年)の2部構成を予定している。

1990年から92年まで、赴任した期間は3年だったが、赴任中は貴重?な体験が多かった。

なぜ出社した?クーデータだぞ!!

199X年某日、朝食を済ませ送迎車を待った。

「おかしい・・・定時になっても迎えの車が来ない・・・」

60人ほどいた駐在員のほとんどはマカティビレッジに一軒家を借りて住んでいた。送迎車はビレッジ に点在する家を巡回して駐在員をピックアップする。

「おかしいな」と思いながらも遅刻しないようタクシーを拾い工場へ向かった(地図)。

道中に戦車が止まっていたが、「なにかのイベントか?」と特に気にしなかった。工場に着くと人がまばらで中に入ると私の当時の上司は出社していた。

「なぜ出社した?クーデータだぞ!!」

上司は、私に気がつくと開口一番びっくりした面持ちでこう叫んだ。すぐに帰宅したが、話はここで終わらなかった。

流れ弾が危ないから、家の中心に集まれ!!

帰宅したその日の夜、家の塀を隔てたところで銃撃戦が勃発、

”ダダダダダダダダ・・・・” 窓越しの夜空が昼のように明るくなる。

「流れ弾が危ないから、窓から離れて家の中心に集まれ。。。!!」

ローソクの灯の中で銃撃戦が収まるのを待った。

当時はマルコス政権からアキノ政権(エドサ革命)に移行して間も無く非常に不安定な時期だった。


FHNバチ
FHNバチ

こんにちは、案内役の「FHNバチ」です。

なぜ、マルコス政権がアキノ政権に移行することになったのか、気になるので少々調べてみました。

ここからは、年度別のGDP成長率を参考にしながら深堀した内容になります。

フェルディナンド・マルコス 

1965 − 1986

マルコスが大統領に就任した1965年から1986年までのフィリピンと日本の成長率

1965年から1980年までは5%以上の高い成長率を維持

  • 1969年6月 農地改革区の選定・布告数がマカパガル前政権の10倍の120に増加。
    それに伴い、地主と小作人の間で紛争が急増・拡大。(参考:慶應大学生レポート
  • 1972年9月 21日 地主・小作人間の緊張・対立の高まり、財閥による富の独占などを背景にフィリピン全土に戒厳令を布告。
  • 1973年 マルコス政権になって初めて成長率8%台を記録。
  • 1973年 第1次石油危機
  • 1974年〜1977年「開発4カ年計画」をNEDA(国家経済開発庁)が発表。(詳しくはJETRO参照)
  • 1976年 2回目の成長率8%台を記録。
  • 1979年 第2次石油危機。これを機に経済成長が鈍化する。
  • 1970年〜1980年の10年間で、日本の成長率を下回ったのは78年の1年のみ(戒厳令布告の72年を除く)。

動画(クリック):なぜ戒厳令を布告したのか?(英語)

1981年から成長が鈍化、特に84年、85年と−7%台

  • 1981年 Makati Business Club(MBC )が結成。
    第2次石油危機に端を発する形でそれまで友好的だった財界は、MBCが先鋒となり政府に対し批判的見解を示すようになる。(参考:JーSTAGE記事
  • 1981年 財界に続き発言力をもつキリスト教も批判的発言を繰り返し、同年1月に予定されたローマ教皇ヨハネ・パウロ2世のフィリピン訪問を前にして、戒厳令が解除される。(参考:論文
  • 1983年8月にニノイ・アキノがマニラ国際空港で暗殺される。これを機に、市民の間でも反マルコスが拡がる。マルコス、四面楚歌状態に。
  • 1983年 ニノイ・アキノ夫人、コラソン・アキノ大統領選出馬表明。
  • 1984年 マルコス 政権で初めて経済成長率がマイナス成長に。
  • 1985年 2年連続7%以上のマイナス成長。市民の不満が頂点に達する。
  • 1986年 2月7日 公式な投票立会人らが、アキノが80万票差で勝利したと示したものの、中央選挙管理委員会の公式記録は、マルコスが160万票の差で勝利したと発表。
  • 1986年 2月22日 クーデター決起。(エドサ革命
  • 1986年 2月25日 アキノ大統領就任。

動画(クリック):1983年当時のマニラ、マカティ、その他


FHNバチ
FHNバチ

深掘り内容はここまでです。

第2次石油危機によって経済成長が鈍化し、マルコスへの求心力が徐々に無くなっていったようです。

マルコス と聞くと独裁のイメージが強いですが、戒厳令が長期化した事が大きいと思います。この記事を読むとロペス財閥との確執もあったようです。

また、私腹を肥やしていたイメージが強かったのですが、何より政治は資金が必要なので、財閥出身でないマルコス にとっては止むをえなかったのかもしれません。

最後に、エドサ革命時の日本はどんな時代だったを思い出すため、歌謡曲のメドレー集を集めてみました。

  • 歌謡曲で振り返る当時の日本(84年〜86年)
    • 1984年(昭和59年)クリック→ヒットソングメドレー(デビュー:安田成美、吉川晃司、倉沢淳美、荻野目洋子、岡田有希子、菊池桃子、一斉風靡セピアなど)
    • 1985年(昭和60年)クリック→ヒットソングメドレー(デビュー:おニャン子クラブ、米米クラブ、斉藤由貴、BOOWY、中山美穂、南野陽子など。)
    • 1986年(昭和61年)クリック→ヒットソングメドレー(デビュー:徳永英明、国生さゆり、鈴木雅之、聖飢魔II、杉山清貴、池田聡、石井明美、久保田利伸など)

フィリピンに駐在して6ヶ月がすぎた1990年7月の中頃、駐在員生活にも慣れてきた。いつも通り工場に出社し、自分のデスクで仕事をしていた時だった。

意識を失う女性社員

突然 ”ガン”、”ガン”、”ガン” と地面が突き上げ、続いて強い揺れが始まった。

天井からはシーリングライトカバーが落ち、揺れで立っていられない。女性社員は泣き崩れ、中には意識を失う者もいた。

震源地はバギオ、工場からは250キロ以上も離れているが揺れは強い。覚えているのはここまでで、それ以降何をしたか思い出そうとしたが無理だった。

冷静を装っていたが、パニックになっていたのかもしれない。

動画(クリック):バギオ大地震テレビニュース(ABS-CBN)タガログ語

駐在していたのは90年から92年だったが、その3年という期間に何十年(いや、何百年か)に1回という確率で発生する自然災害は地震だけで終わらなかった。

フィリピンに雪?

1991年6月16日の朝、目が覚めふと床を見ると一面が白く覆われていた。

「雪?・・・」

とトンチンカンな思いが頭を過ぎったが、それが灰だという事に気がつくのに時間は掛からなかった。前日の15日に起きた今世紀最大のピナツボ火山噴火の火山灰である。

動画(クリック):ピナツボ火山噴火

外に出ると火山灰が台風で運ばれ、至る所が雪のように白く覆われていた。

余談だが、一説によるとバギオ大地震とピナツボ火山噴火は関係している可能性があるらしい。

動画(クリック):6月16日マガリアネスビレッジ(マカティ)の映像。白く見えるのは全て灰

相次ぐ自然災害は経済にも影響し、91年の成長率は−0.58%まで落ち込んでいる。

(参考)アキノ政権時のフィリピンと日本の成長率(1986−1992)

第1期 フィリピン駐在(90年〜92年)#3

仕事以外のプライベート生活

<続く>

ja日本語