懐古録と回顧録

フィリピン駐在懐古録(90〜92年)#1

第1期 フィリピン駐在(90年〜92年)#1

一般的には年金の受給が始まる65歳が定年だが、60歳で会社員生活から引退しようと考えている。

60歳といえば暦でも還暦と言うし、区切りをつけ第二の人生をきちんと迎えるには最適な年齢だと思うからだ。

60歳まであと4年以上ある。手始めに自身の会社員生活を客観的に見つめ直すことから始めることにした。

その手段としてブログを選んだ。ブログは20代で初めて海外駐在した第1期(90〜92年)と40代の第2期(04〜07年)の2部構成を予定している。

ニノイ・アキノ国際空港

1990年1月10日、成田発−マニラ着便でニノイ・アキノ国際空港に到着。Immigration(入国審査)でパスポートを提示し、荷物を受け取りCustoms(税関)を抜け、出口へ向かう。


動画(クリック):1990年当時と変わりがないニノイ・アキノ国際空港の映像


空港出ると当然の如く熱風がスーツを着ていた体にまとわりつく。

「暑い・・・・」

到着エリアには出迎えに来ている何十人もの顔・顔・顔・・・。1月10日といえば、日本では冬であり日焼けしている人はほぼいない。

でもここはフィリピン、小麦色の肌に目の白さがコントラストとなり目立つ。全員がこちらを睨んでいるようで、なんとも言えない怖さを覚えた・・・。

いよいよ人生で初めての海外駐在員生活のスタートである。入社してから9ヶ月目だった。

高級住宅地 「Dasmariñas Village」

到着エリアで待機していた迎えの車に乗り込み、エドサ通りを北上していく(地図)。

工場には向かわずに、ショットガンを携えたガードマンが門番をしているゲートの前で止まった。

ガードマンが車に貼られている通行許可ステッカーを確認し終えると高級住宅地 「Dasmarinias VIllage」のゲートが開いた。


動画(クリック)「Dasmarinias VIllage」内の風景映像


ゲートを抜け2、3分走ると2階建ての一軒家の門の前で止まった。庭にはプールがあり、2階にはバスルーム付きの10畳以上の部屋が3つはあった。

この豪邸は会社が借りていて、出張者や独身の駐在員が泊まっていた。賃料は月数10万円したのではないかと思う。

また、住み込みでメイドさんが家事をこなしていたので、炊事・洗濯・掃除など一切する必要がない住環境だった。

工場はFTI Complex 経済特区に

荷物を置くと一息つく間も無く工場へ向かった。工場はタギッグ市のFTI Complex Special Economic Zone (経済特区)地図)に建設された、15000人が働く工場だった。20分ほどで工場に着いた。

生産は始まっていたが、工場の至る所が工事中で混沌としていた。また、停電がかなり頻発していたので、かなり大掛かりなジェネレータが設置され、稼働時の騒音が話し声を打ち消した。

工場では、業務用無線機コードレス電話衛星放送受信機などが製造され、OEMブランドとして主に米国のラジオシャック社に納品された。

コードレス電話に関しては、独自ブランドでの販売も世界的に有名なプロゴルファーのコマーシャル起用が奏功し、認知度が一気に高まった。

売り上げ規模が毎月前年度を上回り、年間で前年比300%に達した。

増産に伴う生産設備増設や工場統合

毎月増産が続いた製造工程は、製品の内部を製造する工程と組み立てラインで構成され、生産設備はそのほとんどが内部を製造する工程で使われていた。

1990年はその生産設備の安定稼働に注力した。

内部製造工程は、まずプリント基板上に手差しや自動基板実装機で電子部品を配置し、半田槽やリフロー装置で部品と基板が半田で固定される。

その後、検査工程で目視検査され、目視検査では困難な部品間のショート不良などをインサーキットテスタで検出する。全ての検査工程で合格した部品実装済み基板のみが組み立てラインに進む。

また増産に伴い当時1億はした自動基板実装機を増設する事が決定し、それに伴い自動実装機の研修を受講するため日本へ一時帰国したりもした。


動画(クリック)三洋製自動基板実装機の稼動映像


同年、隣接する2つの工場を一つの工場に統合する計画が始動したが、今でも鮮明に覚えている出来事がある。

すでに生産が始まっている中での工場統合である。生産同時進行という非常に困難な計画である上に、なんと工場長は自分の足のサイズで寸法を測り、新レイアウトを決めていった。

つまり、レイアウトの詳細は全て工場長の頭の中にだけ存在していた。

工場長の指示されるがまま設備を移動していったが、不思議なことに問題なく製造ラインがレイアウトされていった。

会社が高成長している時は、他の会社でも似たような出来事があったのではないかと思う。

提案に協力的な工場長、技術部門長

1991年には、多品種少量生産のライン変更を容易にすることを目的に当時まだ珍しかったLANを活用したデータベース管理システムの導入を提案した。

プロパーだからか、あるいは新卒で駐在していたからかはわからないが、工場長や技術部門長がまだ青二歳の私の提案に耳を傾けてくださり、直ぐに許可が降りた。

工場内に散在していた測定器類や治具類を倉庫に集約しデータベースに登録。データベースにアクセスする端末をLANで結んだ。

倉庫のどの棚のどこに置いてあるかが直ぐに分かり、製造する機種変更準備の時間短縮に寄与した。

また、1992年には「セル生産」を検証する為にソニー製の卓上ロボットの導入を提案。この提案も却下されることなく協力していただいた。

1990年代以降、多様化する消費者ニーズに即応する工場が求められるようになり、ニーズに合った製品をすばやく提供する体制を構築するため、「セル生産」が注目され始めていた時期だった。

フィリピンは共産圏ではないが、1987年の東芝機械のココム違反などの問題も有り、精密機械の輸出入がうるさかった時代、当時の工場長には大変お世話になった。

今あらためて考えると、人件費の安いフィリピンに進出しているにもかかわらず、「セル生産」を目的としたロボットは相反するアプローチであり、工場長には申し訳ないことをしたと思う。今考えるとまさしく若気の至りである。

第1期 フィリピン駐在(90年〜92年)#2

波乱万丈な生活:クーデター未遂、相次ぐ天災

<続く>

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