throwback_1989-1990
懐古録と回顧録

フィリピン駐在懐古録(88〜90年)

大学卒業〜入社〜フィリピン駐在まで 

一般的には年金の受給が始まる65歳が定年だが、60歳で会社員生活から引退しようと考えている。

60歳といえば暦でも還暦と言うし、区切りをつけ第二の人生をきちんと迎えるには最適な年齢だと思うからだ。60歳まであと4年以上ある。手始めに自身の会社員生活を客観的に見つめ直すことから始めることにした。

その手段としてブログを選んだ。ブログは20代で初めて海外駐在した第1期(90〜92年)と40代の第2期(04〜07年)の2部構成を予定している。

1989年の3月に京都の大学を卒業した。1989年といえばディスコのお立ち台でボディコン姿で踊る風景がテレビで連日話題になるなど乱痴気騒ぎの真っ只中だったいわゆる「バブル景気」が崩壊する前である。

就職活動は3社のみ

就職活動は卒業年の1年前から行うが、工学部は実験などで忙しくなかなか就職活動に日数は掛けられず、また、実家からの通勤を考えていたので関東でのみ就職活動を行った。もちろん京都から東京への往復運賃などもバカにならないので一か八か3社に的を絞った。

バブル景気の後押しもあったのだろう、幸いなことに2社から内定をいただくことができた。迷ったが、当時「第2のソニー」と呼ばれていたこともあった無線通信機器メーカーにお世話になることにした。

販売は欧米、製造はアジア、研究開発は日本という当時としてはあまり他に類を見ない非常にユニークな会社であり、また実家の最寄り駅から一駅目に本社が所在していたので通勤も苦にならない。何か縁めいたものも感じた。

その無線機器通信メーカーに1989年4月に入社した。同期は会社の売上規模を考えると多い70人。入社後6ヶ月かけて様々な部署を体験研修を経た上で配属先が決定する。

海外(香港)工場研修

まだバブルが弾ける前だったからだろう、6ヶ月の研修の中に香港の九龍半島南端の商業地区の尖沙咀にある工場での体験研修が含まれていた

香港では雑居ビルの中にいくつもの工場が入居している場合が多い。香港の製造業はこの頃がピークで、90年以降は、第三次産業化サービス産業化が進んでいる。体験研修もビルの中に入居していた工場で行われた。

といっても研修内容は、製造ラインの一員となって製品を組み立てたり、倉庫の整理などである。

研修内容から考えると就業ビザが妥当だと思うが、観光ビザで香港に入国していたので、ビザが切れる前に中国の深センに出国し、とんぼ返りで香港に戻りビザを延長した。もう時効だと思うが、入国管理上はアウトだと思う。

そうこうするうちに1ヶ月が過ぎ、明日いよいよ日本に帰国という日に一緒に研修に来ていた他の同期4人を除き、私にだけ研修の1ヶ月延長が告げられた。

フィリピン工場支援

延長理由は、香港工場で研修を延長して生産設備を覚え、フィリピン工場へ行くよう指令が出たのだ。

前年の1988年にフィリピンのタギッグ市に建設され、生産が開始された工場の支援の為であった。生産設備の稼働率が芳しくなく、その稼働率をあげることがミッションであった。

なぜ私にだけ白羽の矢がたったのかは今でもわからないが、多分英語が話せて、機械工学を卒業していたからという単純な理由からだと思う。

しかし、いくらなんでも香港から直接フィリピンへは可哀想だろうという話が出たようで、一旦日本に帰国してからの出張に変更された。

さて、波乱に満ちた新人研修も終わり、生産技術部の生産設備課配属に決まった。生産設備は全て海外の工場で稼働しているので海外駐在は既定路線であったのだろう、生産技術部長からフィリピンの駐在の打診が1989年12月にあった。

フィリピンという国の事は何も知らなかったが、もちろん断る理由など無い。かくして1990年1月10日からフィリピンの駐在員生活が始まった。

第1期 フィリピン駐在(90〜92年)

<続く>

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